“ Original Massage ”

 以下に記載する内容は根拠あるものでは無く、耳に入るある意味一方的な情報を基に個人的解釈も踏まえて記載しており、中には誤解もあるかもしれません。 しかし、火の無い所に煙立たず・・・又、このような情報が流れる事自体に少なからず問題が潜在している事と受け止めています。 人それぞれで受け止め方や、それに対する意見は賛否両論になる事と思います。 お読みになる方々それぞれで受け売り無くきちんと消化して考えて頂ければと思います。 このような事を記載する目的とは、以下内容が事実に近い情報であるならば、又、各漁協にも類似した問題が少しでも潜在しているならば、改善の方向へと向かって欲しい事を目的に文にしました。

 歴史ある企業や組織、団体で、遠い過去から当たり前化して潜在・定着化している一部の人に偏った権力と利益、影に隠れた不正や不祥事、人間的モラルに欠ける事象が表面化され、大きなニュースとして幾つか報じられた経緯はご存じであろう。 コンプライアンスとモラルを強調するようになった現代社会では「とんでもない事!」と叩かれる訳だが、一昔前の時代では勝手やりたい放題でも通用した時代だったのかもしれない。 表面化された問題に限らず、古くからあるあって当たり前の組織には、まだまだ叩けばいくらでも埃が出てくるような裏事情があるのではないか? その一つとして、我々の身近な趣味の世界、河川を管理する漁協はどうだろうか? ここに働く職員は団体職員に該当するようで、公務員のように年収を公にされる事が無いようで、ある職員は仲間と飲みに出掛けると気前よくごちそうしているなんて噂も聞く。 そして、その漁協の中核を担う組合役員、一番厄介なのは一言で言うならば、古い体質の誇示、詳細に言うならば、地元年配役員が権力を誇示し、耳を傾けるべき世の中の環境変化や若い世代の意見も受け入れず、昔からのやり方に執着し、「昔からこのやり方だ」、と疑問を持たないか、それとも頑固に過去からの歴史を重んじたりする。 最悪なのは結局は自らで美味しいところを持っていくばかりの「エゴ」で囲み、それを崩したくないのが本音のところ。 今や地元の方以外の訪問者もあって漁協の財産が潤う事や、それだけではなく訪れる人がその町にも様々な形でお金を落とし、町自体も少なからず恩恵を受けている事なども毛頭に無い。 それでいて漁協としての財政が厳しいとばかりに、今になって単に外部収入を増やそうと遊漁量を値上げする。 他の小さな漁協でも、電力会社や沿川企業からの保証を受けて地道に安定経営している漁協も実在するのに、それら保証の恩恵すら一切見えない。 そんな漁協から公表される取組み、情報には信憑性に欠け、公表しているだけの結果も事実として見えない・・・。 結果が悪いのは「川鵜」の影響と、都合の良い理由の言い訳にして責任転嫁しているように聞こえ、実際に飲んでいるのは川鵜では無く、先の人たちではないか?と疑いたくなるのは言うまでも無い。 一生懸命努力されている漁協もある中で、環境変化、世の中の流れの変化に追従せず、古い考え、体質のままで変えよう、変わろうとしない漁協が実在するならば、いっその事破綻してリセットされた方がいいとも思える。
 年々サイトを運営する漁協が増えてきた。では「何を目的としてサイトを運営するのか?」 何事にも行動するには目的を明確にするのが基本、おそらく、正直な努力、取組みとその結果の情報を公に発する事で集客し、収入を安定化させ、或いは増やし、その収入から以後の活動へと繋げる、即ち生きた河川を継承していく為では無かろうか? 単に他漁協がやっているから、予算があるから、職員の暇つぶしのような浅はかな考えでサイトを運営するのであれば、釣り人にとっては逆に迷惑でもある。
 放流事業においては、本来の魚の習性知識に乏しく、ここでもエゴを発してしまう役員も残存すると聞く。 ある町を中心に流れる川、そこには同じ漁協管轄の支流も多く含まれるのが一般的、集落が数件しか無い町外れの奥地、私有地を含んだりして他の釣り人が入れないような源流域に近いような水温の低い流れにまで稚鮎を持ち込んで放流したり、他の稚魚を放流したりする・・・なぜ? その集落に組合役員がいたりするのだ。 河川における釣りを熟知した人であれば、その魚種に適した流域、流れ、水温といった適正な環境条件は理解しているはず、しかし、熟知していない人が支部役員であったり、放流する側という権限をエゴに変えてしまう役員がいたりするのだ。 確かに、その河川の地元組合員として出資している限り、権限がある事には間違いは無い。 しかし、稚魚を購入するにも費用はかかり、その費用の一部は少なくとも入漁者から得た収入も含まれるものと思われる。お金を捨てるような放流事業に無く、地元組合員だけのエゴに無く、魚に適した有効な放流活動を行ってもらいたいもの、酷い場合、情報社会となったこの時代の中で、「地元優先、よそ者は・・・」的な考えも残存するようである。 それならば極端な話しで、高齢化、少子化、過疎化が進む事をよそにしてよそ者を入れない、情報を一切公表しない町内住民専用河川にでもすればいい。 そんな事にでもなれば、逆にそこの町の人は他の河川には一切来るなとばかりに争い事に繋がってしまうだろう・・・。
 ここまでは管理側の情報だったが、釣り人側の情報として、他の釣り人は滅多に入らないような源流域を専門としている源流釣り師がいる。 その源流には世代交代を繰り返し生き継がれる多くの天然イワナが生息し、釣り人に荒らされる事無くスレていない為、その源流釣り師が糸を垂らせば面白いように簡単にイワナが喰らいつく。 しかし、その源流釣り師は、決して必要以上は釣らない。 単にその場を楽しむ為と欲の固まりだけで釣れるだけ釣る事を繰り返したなら、その源流域の魚が絶えてしまう事を知っているからである。 そもそも、釣りの起源、原点とは人間が生きていく為の食糧の確保の為だったはず。 当時の人間も捕り過ぎると絶えてしまう事を理解していたかもしれない・・・食べる分だけ、保存できる分だけをその日に確保し、食料が無くなってきたら又釣りに行く、そんな繰り返しでその日に捕れるだけ根こそぎ捕ってしまう事は無かっただろう。 しかし、残念ながら現代社会には、漁協が努力して卵を埋設した区域に入り、成長途上のサイズを含めて根こそぎ釣って持ち帰り、それを入れ食いだったとばかりに他人に自慢する、その日が良ければ良く、先の事を考えないエゴの固まりの寂しい釣り人がいるのも事実である・・・。そして、今や釣りはスポーツやゲームとも呼ばれ、本来の原点とは異なる面もあり、自分も含め釣りそのものを楽しみたい人もいる。 釣りの起源に沿って「食べもしないのに釣りするな!」と言われると正論での回答は無く、キャッチアンドリリースにも賛否両論があるのだが、釣りの起源、原点を重んじて現代風にまとめるならば、命ある魚を釣るなら、食べる分だけを持ち帰り感謝して食し、食べないならば流れに帰してあげる・・・これで如何だろうか・・・。
 最後に、人間が生きていく為に建設されてきたダム、堰堤、護岸工事など、魚たちが繁殖を繰り返す自然に手を加えてきた人間の都合による歴史の積み重ねから、今や渓魚の養殖と放流事業無くして魚の居る川を継承出来ない現在、色々と試行錯誤して研究、努力している漁協もあり、これら取組みの努力があってこそ釣りが出来る河川が継承され、釣りを楽しめる環境を提供頂いていると釣り人として感謝したい。 しかし、前記のような腐敗した漁協が本当に実在するのであれば、「河川」という素晴らしき財産がありながらも、有効に活用されていない事が残念でならない。 釣れる、釣れないの結果は別であって、良き川、良き渓相、良き流れ・・・なのに魚が居ない・・・釣り人にとって、これほど寂しい事は無く、自然の継承の上でも寂しい。 提供する側、提供される側の双方の間に溝無く協力感を持ち、川の流れのような透明感ある管理、釣り環境の継承を願いたい・・・。

 

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