私がまだ保育園に行く前の幼少の夏頃、近所の同級生さっちゃんと一つ下のケン坊との3人で、いつものようにすぐ近くの河原へ砂遊びに行きました。 その当時、川は降雨の影響による増水からの引き際、砂遊びに夢中になっていた私はその流れにのまれて流されたようです。 たまたま心配になり、河原へ様子を見に来た母親が我が子の姿が無いのに気が付き、一緒に来ていたさっちゃんに問いかけると、「どんぶらこいっちゃたよ~。」対岸に居たおじさん達が「あそこだ!」と大きな声で指差す、無我夢中で母親はその流れに飛び込み、幸いにも大岩に引っ掛かった私を助け出したのでした。 大岩の下流は堰堤になっており、大岩が無かったなら、引っ掛からなかったなら救出は出来ないに等しかったでしょう。 更に幸いだったのが、流れにのまれた瞬間に私は気絶したようで、大量に水を飲まなくて済んだようです。 母親に助け出され、河原で母親に抱かれている時に意識が戻った一瞬の瞬間の映像をなぜか今でも覚えています。
何重もの幸いによって今の私の命がある訳で、幼い頃にそんな経験をした私が、川を恐れる事無く釣りが大好きな人間になる事を母親も想像しなかった事でしょう・・・・・。
家のすぐ近くに川があるという環境、そして親父も釣りが好きだったという背景もあり、初めて釣りを経験したのは5歳の頃、地元で行われる毎年恒例のマス釣り大会、親父はいつもように隣町に住む親戚の叔父さんを呼び、幼き私にも釣りの世界へと招いてくれました。 親父、叔父さん、私の3人で自宅裏の流れの前に立ち、6時スタートの号砲の合図を待ちます。 待ちきれない幼き私は「まだ~、まだ~」と親父の足を揺すりながら、ふと足元を見ると、1匹のニジマスが悠々と泳いでいるのに気が付きました。 スタートの花火が上がると、私は目の前の足元に居るニジマスを狙います・・・何度と餌を流すうちに、ようやく食わせたのです。 初めての魚の引きとその感動を体一杯に感じながら、親父に助けてもらいながら取り込みました。 しかし、自分で釣った初めてのそのニジマスは、な、な、なんと、片目が無かったのです・・・。 以来、親戚の叔父さんに釣りの自慢話をすると、きまって「目は付いてたか?」としばらく冷やかされました。 すっかり釣り少年になった私は、同じく釣りが好きな友達と学校の後、休みなどに親父のお古の竿にソーセージを持って自宅より少し下流にある堰堤下へと「くそばよ」(正式名:あぶらはや)を釣りに行っていました。 時々ギンギンのオイカワが釣れると大喜びしたものです。 小学校高学年にもなると、親父の勧めで増水後のささ濁りを見計らい、近所の牛小屋でミミズを掘り、早起きして学校へ行く前にアマゴを狙いにケッタをこいで堰堤下へと行ったものです。 時には尺クラスのアマゴを数匹釣った事もありました。 当時の竿といえば・・・親父が竹藪で採って来て作ってくれた竿、地元の商店で売っていた10円の糸、こんなタックルでした。
鮎釣りに親父が釣れていってくれたのは小学校4年生の頃、5mくらいの鮎用の竹竿を譲り受け、親戚の叔父さんも前夜から我が家に泊まりに来る、鮎解禁はお祭りのようなイベントで解禁前夜は興奮のあまり眠れなかった事を覚えています。昔は釣れた・・・などと言いますが、確かに解禁は少年の私でも30匹は釣っており、私の地元では鮎は小ぶりの為、当時から引き抜きが地元スタイルでした。 鮎釣りも覚えた私は、夏休みは毎日竿と囮を持って泳ぎに行く始末、しかし、置き竿にして泳いで遊ぶ事が中心なので、釣果は少しだけでしたが・・・。
小学校5年生の頃、私にとって衝撃的な出会いがありました。 それは春のマス釣り大会が終わって間もない日、学校から家に帰り、ケッタをこいで出掛けた先の橋から川を見下ろすと、華麗なスタイルでルアーロッドを操り、華麗にニジマスを釣る一人のおじさんがいました。 人見知り、奥手の私ですが、この時は吸い込まれるようにそのおじさんに近づきました。 以来、鮎、渓流はもちろん、ルアー、フライでのトラウト、そしてブラックバスと何でもこなすそのおじさん、鉄さんは様々なステージへ連れて行ってくれ、可愛がっていただき、何よりも釣りの世界を広げてくれました。 特に、ルアーフィッシングにおける私の原点はこの約40年前の鉄さんとの出会いから始まり今日に至ります。 当時、鉄さんが愛用していたスピニングリールがどうしても欲しくて、中学生になった頃、お年玉を貯めて購入したのが、カーディナル33、それまでは親父のお古リールだったのが、カーディナル33が私自身の初代の道具、今や宝物となりました。
時は過ぎ、高校生のヤンチャ盛りから社会人になった私は自動車の免許証も手に入れて更に遊びたいばかり、釣りは解禁に行く程度まで激減していました。 しかし、歳を重ねて落ち着いた頃、会社関係の釣り好きな人から繋がっていき、その中から出会った通称「兄さん」、それまでの私は地元中心で、いわば井の中の蛙だった私でしたが、県内、県外とそれまで私が立った事のない多く河川へと導いてくれ、河川による違い、魅力・・・フィールドの世界を広げてくれました。
そして・・・今や渓流とカメラに魅せられた弟の紹介で知ったとあるサイトから、長らく続いていた平凡な日々の中に衝撃を受ける事となります。 人生半世紀を前にして知った、近隣に存在する素晴らしきアングラーのステージの現実・・・渓龍さん、そしてそこに集う人たち「渓龍の棲む淵」から発せられる刺激的な情報と、集う皆さんが醸し出すオーラは、更にこれからの自分を成長させてくれる重要なファクターとなる事でしょう・・・。
身近な川で、消えてしまう可能性もあった命を繋いでくれた「母親」と、素晴らしき「釣り」の世界へと導き基礎を教えてくれた「親父」・・・当時はまだ流行になる前だったルアー、フライを中心に様々な釣法とその魅力を教えてくれた「鉄さん」・・・多くのフィールドとその違う世界へと導いてくれた「よっちゃん兄さん」・・・そして、自己満足に浸るな、と言わんばかりに刺激を与えてくれる「渓龍さんとそこに集う多くの素晴らしき人たち」・・・人生の中で出会った様々なカテゴリー、人、土地、そこに泳ぐ魚たちの存在があって、自分を表現できる「釣り」というステージがあり、生涯そのステージに立っていたいと願う今日の自分がここにいます・・・・・。
River Land Forever
|