2000.9.12 東海豪雨災害記録

  直ぐ近くに川がある環境に生まれ育った私、左に曲がる流れの内側にあたる左岸側、約180度流れに面した環境の中で暮らし、清らかな流れが夏はクーラーを必要としない涼風を、冬はマイナス二桁になる冷たい風を運んでいた。 河原は幼き頃からの遊び場、水切り、砂遊びをしたり、犬の散歩、もちろん魚釣り、夏休みは毎日のように水泳、雨降りや増水時は川で遊べないのがとても残念で、大雨で川が増水した時は濁流の音が微かに部屋まで聞こえる環境だった・・・・・。
(左写真は災害前の生まれ育った流れ)
 あの日、確かに前日からこれまでに無いほどの強くまとまった雨が玄関先のスレート屋根を激しく叩き付けていた。 いつもと違う降り方に少しだけ不安はあったものの、大事に至る事など想定も無くいつものように床に就いた。 真夜中、叩き付ける雨音の他に聞こえる音に目が覚める・・・裏手から聞こえる川の流れがこれまでの増水時よりも大きく聞こえた。「かなり降ったから結構水が出たんだろう。」などと思いながら再びまぶたを閉じた。 しばらくして、いつもと違う五感から再び目が覚める、それと同時に町内の有線から注意を促す広報が流れる。 耳に入ってくる音はいつもの増水時の濁流音では無く、「ドドドド、ガガガガ、ドドンドドン・・・」大きな岩が引きずり転がっているような音、そして仰向けに寝ている体全体に伝わってくる地響きのような感覚、更に、部屋の中まで漂う鼻先に感じる生木の匂い・・・これはおかしい! まだ夜も明けぬ中、まぶたを擦りながら直ぐ近くの橋まで様子を見に行くと・・・これまでに見た事の無い光景が眼中に飛び込み、一瞬で目が覚める! 真っ先に落胆したのは、幼き頃に飼っていた愛犬が眠る道路下の茂みは既に消え果て、常識ではあり得ない流れが橋をも飲み込み、当たり前のように毎日渡っていた橋上には、前日にはこの町の山に立っていたでろう多くの木々が丸裸にされて堆積している・・・。
 慌てて最低限の物を自家用車に積み込み、家族全員でもう一段高い所に工事を進めていた未完成のバイパス道路へと非難した。 幸いな事に自宅まで流れが押し寄せる寸前であり、夜が明け、そして陽が高くなるに比例して水位は少しずつ下がっていった・・・。 ニュースで知ったのか? 町外の友人達から携帯電話に連絡をくれて心配してもらったのだが、やがて基地局自体の電源が飛んでしまい携帯電話も機能しなくなった。 町の中心である右岸側にある学校や商店に行く為に、幼き頃から渡っていた上流の吊り橋は流され、更に上流の橋も同様に流木が堆積し、右岸側の国道へと出る橋全てが寸断されて近所の人たち含めて集落が「孤立」状態に陥った。 寸断されたライフライン、飛び交うヘリコプターに、改めて「えらい事になっている」と実感した。 ただ、受け止めきれないほどの不安や危機感にまで至らなかった事として、もちろん、家族、近所の人たちが皆無事であった事、集落の家に大きな被害が及んでいなかった事が一番ではあるが、釣りを趣味としていた事から、自家用車にはランタン、懐中電灯、バーナーや鍋、即席麵などが積んであった事、一般的に言うアウトドアグッズを常備している事は、いざという時に実に心強いものだと実感した。 そして、万が一の時の携帯電話は万が一の時に機能しなくなる事も学習した。 自宅にも、幸い少量の食材が残っていた事と、プロパンガスで火は使えた事、御勝手の食器洗い用の桶にはお袋の昔からの習慣で、いつも夜寝る前に万が一の時の為に桶一杯に溜めていた水があった。
通信会社の大きなアンテナを積んだ車が役場に配備され、携帯電話が応急的に通じるようになったのは2,3日後だったと記憶する。 ライフラインの復旧と橋を通行させる復旧には数日の時間を要したが、なんとかやりくり出来るうちに復旧が進んだのが幸いであり、それに懸命に携わって頂いた方たちのおかげである。 ただ・・・・・復旧は進んでも、この時ばかりは生まれ育った流れ、そこに泳いでいた魚たち、川全てが「終わった・・・」と感じるしかなかった。 これまでの大きな災害に至った背景のひとつには、雨を蓄えてくれる雑木の山を、植林によって杉の山へと変えてしまった罰でもあると言われる。 遠い遠い昔から、自然に繰り返し形成されてきた自然というものを、人間の都合で変えてしまう事とは、これまで繰り返し積み重ねられた自然の歴史に反するリスクを背負っている覚悟を、心のどこかに持っておく必要があるのかもしれない・・・・・。